自己肯定感の高さ・低さは一体どこからやってくるのか悩ましいはなし
自己肯定感の高さがあると、人生がとっても楽しそうに見えますよね。
わたしは自己肯定感の高くない人間だと思います。
それはなんでなんだろう 素人なりに考えてみました。
1.自分が長女であること
性格の形成に絶対「兄弟構成」って関係ありますよね。
最近長女の取り扱い〜みたいな本が流行っていますが、同じ悩みや考え方を抱えた人がいることにわたしはびっくりしました。
長女ってとっても我慢の生き物なんです。
「お姉ちゃんなんだから我慢」これが下の兄弟ができた瞬間の宿命になるのです。
遡ること数十年、下の兄弟の習い事のためわたしは塾とお留守番の責務を負うことになりました。
下の兄弟の習い事は19時まであり、母はそれに付き添っていましたのでわたしは塾へ行き、ひとりで帰宅してTVをみてやり過ごす日々でした。
ひとりでTVを独占できる優越感より兄弟に母が遅くまで(小学生の感覚だと19時は遅かった)付き添ってくれているという羨ましさを鬱屈したまま抱えていたのかもしれませんね。兄弟の習い事を「わたしも始めたい」と母に何度も言いましたが「女の子なんだからスポーツせずに勉強していればいいの」と言われ受けいられれることはありませんでした。
ネグレクトを受けていたわけではありませんが、兄弟と”比較して”母に時間をかけられていないのではないか?とすでに思っていたのでしょうね。
(父は放任主義でした。怒りもしませんが干渉もしない。これが長期的に自分がなんでも一人でやってしまう人間になる要素の一つとして食い込んできたのかもしれない)
2.失敗が許されないことだと思っている
これは私が成人するまで、成人しても失敗続きだと考えていたからです。
まずは高校受験。推薦入試のお願いを学校に出しましたが推薦では受からず、一般入試で受け直すことに。県内では偏差値のかなり高い高校で、不出来な私は先生方に受からないからやめておけと言われたのに当日一般入試を受けてしましました。
しかし合格。当日だけはなぜか調子が良かったのでしょうね。
本来ならここで「推薦で受からなかったこと」より「一般入試で合格したこと」を嬉しく思うべきなのでしょうが、何故か推薦で受からなかった思い出がこびりついてしまいます。ひねくれていますね。
後に偏差値の高い高校へ進学してしまったため、不得意科目で一度一桁台のテストの点数を叩き出したことがありますが何故かこれは笑える思い出です。よかった。
また、大学に進学の際も一度浪人してしまっています。
浪人生活も楽しかったのですが、「何をやるにも必ず一度失敗する」という意識がより浮き彫りにされてしまい、就職も1社目はとても人間らしいとは言えない扱いを頂く会社に採用されてしまいます。1年経たず辞め、その後は真逆に福利厚生が整った会社に転職を成功しました
しかし何故「高校に受かった、大学に受かった、転職も成功した」という客観的に見れば成功したであろう体験を「一度失敗した」という体験のほうが大きく自分を支配しているのでしょうか。成功には失敗がつきものですがその「失敗」をあまりに大きく捉えすぎてしまったのです。
3.他人と比較してしまう
小学生の時に始めた習い事を、途中から近所に住む友人を誘ったことがありました。
友人は丁寧に習い事をするほうで、比較して自分は奔放な方でした。
結果賞をもらうのも、進級が早いのも友人の方でした。当時わたしはあまりそれに関して気にしてはいませんでしたが母から「どうして後に始めたあの子の方がいい結果になるの?」と何度も言われどんどん習い事も嫌になってきました。
わたしは何かにつけて諦めの早い方であり、やりたくないことはやらない人間でした。
しかし何事も途中まではやります。極めはせず途中まで。比較されるくらいなら不真面目を装ったほうが楽だと思ったのです。
それからというもの、わたしはとにかく半分真面目、半分不真面目に生きてきました。
習い事、学校生活、恋愛、仕事。すべてのことを半分は真面目に取り組み半分は不真面目に取り組むことを徹底したのです。よく言えばオールラウンダーになりました。
でも真面目に取り組み、成し遂げる友人には敵わないのです。自分で自分を諦めたその結果が「ぱっと見オールラウンダー」なのです。
そんな自分の周囲の友人は幸運なことに大変できた人たちでした。
一人目:不真面目に徹底し、要領よく面倒ごとを避ける能力に長けた友人。
わたしより不真面目なのに、不真面目さに徹底しているので不要な怒られごとは避けているのです。貶しているわけではありません。彼女は持ち前の要領の良さで徹底的に面倒ごとは避けていました。不真面目さにも才能が必要なのはわたしはこの時知ったのです。
徹底して不真面目なことに真面目で、サボったことが何故か大事にならない才能が彼女にはありました。
二人目:とてつもない求心力のある友人。
とてつもない求心力です。大学でもバイト先でも、彼女は大層な有名人でした。
美人で、大人っぽいファッション、おまけに発言も面白い、仕事もできる。
彼女は目立つ存在でした。決してゼミに真面目に取り組んでいたわけではありませんが何事もそつなくこなす賢い子でした。
しかし彼女の求心力の源は「美しいこと、面白いこと」ではなく「徹底した共感力、聞く力」だったと思います。彼女にはよく様々な相談が舞い込んでいました。わたしも今でも悲しいことがあれば彼女に相談します。彼女に話すと自分のことのように悲しんでくれ、怒ってくれます。親身に話を聞いて、共感してくれるのです。この共感力が非常に羨ましく、今でも、今後も見習いたいと思っています。
三人目:自我を徹底して大事にする友人
自制力、そして自分のために考え決断する能力に特に優れています。
例えばどれだけ好きな男性でも、自分のためにならないと思った瞬間に不要な部分として男性との付き合いをきっぱりそぎ落としてしまいます。これは今のわたしには到底できることではありません。
彼女は自分に不利益、悪影響があるものは容赦なく切り捨てることができる、強い意志の持ち主です。その強い意志は世間一般で言われる「気の強い女」という嫌〜な感じではなく自分のために考え行動できる大変賢い女性です。気が強いからと言って、他人を傷つけるのではなく全て自制のために決断をします。不快感は一切なく、その決断力は彼女の魅力として周りの人に映るのです。
不思議なことにこの三人はわたしと同じ長女です。
なぜ同じ長女であるのにこうして私とは違っているのだろうといつも感じ、比較し、悲しくなることがあります。
しかし皆同じでは正直気持ち悪い世の中になりますよね。
変にネガティブな自分でもいい、誰かと比較することは、誰かの優れた点を見つけられる観察力があるとポジティブに捉えればいいのです。
客観的に見て「観察力がある人」と見られたいわけではないのですが、結果身についた能力なので仕方ありませんね。いいところとして受け入れていくことにします。
文章に書き出し、客観視することで気持ちを整理するいい機会だと思って。
ちなみに母親の言葉が人格形成に悪影響を及ぼしたように言及していますが、わたしは決して母が嫌いなわけではありません。寧ろ感謝しています。母には尊敬すべき点がたくさんあります。わたしのような子どもを持って大変苦労したことと思います。真面目なふりをした不真面目なのですから。母の言葉や環境、その時の考え方様々なものが組み合わさって考え方の形成に至ったので。
こうしてみると結構客観視できているのかもしれませんね。
「分析できた」という一つの成果として自分を認めるいい機会かもしれません。
肯定感につなげる第一歩として。